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日航123便墜落事故から25年に思うこと

今日、2010年8月12日は1985年の同じ日に起きた、
日本航空123便の墜落事故から丸25年です。

事故当時、ボクは高校3年生。受験勉強真っ只中、夏休みの大きな出来事でした。


今から思うと、この出来事はボクの人生の中で、最もセンセーショナルな事件です。

今朝の日経にもあるとおり、
時事通信から「123便がレーダーから消えた」旨の第一報が、
FAXで報道関係にもたらされたのは夜の7時過ぎだったようです。

確かな記憶は、10時からのニュースステーションが、
急きょ、番組全体をその関連で構成することになり、混乱気味のスタジオの中、
アンカーの久米さんが次々と入る未確認情報を伝える緊迫感です。
そして、どうやら墜落は間違いなさそうだと伝える報道によって、
暗鬱とした恐ろしい気持ちになったことを覚えています。


時をうんと隔て、山崎豊子著『沈まぬ太陽』を読みました。
沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)
(2001/12)
山崎 豊子

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そこで描かれた事故現場の悲惨さはまさに地獄絵図。事故の惨さを改めて知りました。

しかし、本当に胸が張り裂けそうな思いになったのは、
“終わり”である“墜落現場”の凄惨さを知ったからではありませんでした。
この事故の本当の悲惨さが、“経過途中”である墜落までの“死の飛行”にあることを思い知ったことでした。

羽田離陸後から間もない夕方6時20分過ぎの異常事態発生から、
御巣鷹の尾根に墜落した7時前までの30分強の間、
123便はダッチロールと言われるきりもみ状態での“死の飛行”が続きました。

完全にコントロールを失った不安定で無統制な飛行が乗客に強いた激しい恐怖、
墜落は免れないということを確信した時に味わせられた底なしの絶望、
不意に自分の目の前にやってきた飛行機事故で死ぬことに対する無念さ、
恐怖と共に自身の死への蓋然性を長い間感じ続けさせられた惨さ、
そしてこれらをすべて甘受しなければいけなかったこと、
残してしまう家族への感謝や思い遣りを何とか残そうとする優しさと愛の大きさ、


こうした事実を知るに至った時、叩きつけられ、打ちのめされる思いでした。


事故から25年、日航社員の8割以上が事故後に入社しているという事実。
昨日からあちこちのニュースでこの事故を取り上げ、時の流れに照らし、
“風化させてはならない”
という遺族の思いを伝えていました。

まったくそのとおりだと思います。
事故で亡くなられた520人の命を無駄にしてはいけません。
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